鹿児島御朱印巡りで、鹿児島県霧島市隼人町に鎮座する富隈稲荷神社(とみくまいなりじんじゃ)にお詣りして御朱印を拝受して来ました。慶長二年になり、島津義久公が伏見稲荷を勧請合祀して後は、稲荷神社と称するようになった神社さんです。今日で、869社目です。
一の鳥居
一の鳥居です。お詣りした日は いい天気で 青空に朱色の鳥居がきれいでした。
二の鳥居
二の鳥居です。
手水舎
手水舎です。
お狐様
お狐様です。独特の表情をされています。
拝殿
拝殿です。
由緒
建久七年島津忠久公が薩隅日三州の守護職となり薩摩に下向の途次、米之津沖合にて海上の風波甚だしく危難に陥られた。その際住吉大明神の御救いにて事無きを得たため、この所に住吉神を祀った。これにより、住吉の地名が付けられたという。
慶長二年になり、島津義久公が伏見稲荷を勧請合祀して後は、稲荷神社と称する。
社務所
新しく建てられた 社務所です。御朱印は こちらでいただけます。
お守
お守です。
御朱印
御朱印です。直書きでお受けしました。ありがとうございました。
御神木
御神木です。
駐車場入り口
駐車場へは 青い矢印のところを 入ってください。グーグル〇ップだと 少し離れたところに 案内されます。
駐車場
広い駐車場があります。
境内横には 富隈城跡があります。
富隈城跡
富隈城は、島津十六代義久によって築かれた城で、平地にあり、小山を本丸代わりにした平山城です。この城は東西約百五十メートル、南北約二百五十メートルの方形で西・東・北側に堀があったといわれ、現在は北と東側に堀の跡が残っています。
城の造りは、天守閣がない館形式で城門も茅葺きであったということです。西側や東側には、野面積みという技法で積まれた石垣が残っていますが、これは肥後(熊本)八代の種山の石工たちが築いたものだと伝えられています。
義久は、文禄四年(1595)から慶長九年(1604)まであしかけ十年間ここに居住しました。義久が富隈に来たのは、豊臣秀吉の島津討伐に敗れ、降伏した意志を表すため、鹿児島の城を弟義弘の息子家久に譲り、富隈の隠居の形をとったためだといわれます。義久在城の間、朝鮮出兵、関ケ原の戦いなどが相次ぎ、二本葉激動し、島津氏にとっても苦難の時代でした。義弘が関ケ原で家康の本陣を突き、的中突破してわずかな家臣と帰り着いて、兄と対面したのもこの富隈城でした。朝鮮出兵にも富隈衆が多数参戦しました。また秀吉の勘気にふれ、文禄元年(1592)薩摩の坊津に流された近衛信輔(関白の位に就く、書道の達人で三藐院流の祖)も、文禄五年(1596)許されて帰京の途中この城に立ち寄り、歌会や能楽等を行っています。
このように富隈城は、市史はもちろん県史・国史にも逸することのできない史跡であるので、大切な文化財として指定し、末永く保存することにしました。なお城内には島津氏が氏神として崇拝した稲荷神社が祭られております。
看板より
神社情報
富隈稲荷神社(とみくまいなりじんじゃ)
鹿児島県霧島市隼人町住吉1881
御祭神
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
底筒之男命(そこつつのおのみこと)
中筒之男命(なかつつのおのみこと)
上筒之男命(うわつつのおのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)
例祭日:11月10日
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 869社目の
御朱印をいただきました。
残り 131社です。
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