九州御朱印巡り 福岡御朱印巡りで、福岡県豊前市に鎮座する國玉神社(くにたまじんじゃ)と鬼神社(おにじんじゃ)にお詣りをして御朱印を拝受して来ました。鬼の階段、求菩提山中腹の中宮と、山頂の上宮がある神社さんです。今日で、631社目と、632社目です。
門柱
求菩提資料館で、御朱印をお受けしたので 國玉神社に向かいます。
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求菩提資料館から、國玉神社の駐車場まで 車で7,8分くらいです。
途中、仏像もたくさんありました。
参道
駐車場に車を停めて 社殿へ向かいます。参道は いたるところが崩れていて 土嚢が積んでありました。
岩屋坊
山中に残るわずか二軒の坊(山伏が住んだ家)の一つが、この岩屋坊です。昭和40年代初頭まで岩屋氏が住んでいましたが、その後無住となり今は福岡県民俗文化財の指定を受け保存されています。建物の規模、構造など特に珍しいものではなく、求菩提山の坊家としては平均的なもので、江戸時代末期の建築と考えられています。記録によれば明治5年には2世帯5人が生活していて、内、一人は弟子となっています。内部には竈や囲炉裏、祭壇なども残され、当時の山伏達の生活の様子を知ることができます。なお、内部を見学希望の方は資料館にご連絡ください。
看板より
安浄寺(あんじょうじ)
求菩提山の忠臣は護国寺であり、修験者たちはそこを拠点として様々な修行に挑みました。その護国寺に通じる杉谷は最も古くから開けた集落で、山中で暮らす修験者にとって生活に深くかかわる場所でした。求菩提山は門前町をもたなかったため、杉谷周辺に様々な機能が集中したようです。この安浄寺は修験者(山伏)の弔いの場であったとされ、併せていくつかの年中行事も行われたようです。記録によれば、7月15日の念仏供養が行われたことが知られ、高臈(位の高い修験者)10人が衆徒10数人を従えて谷々を大念仏を唱えながら廻ったとあります。現在は三十三観音石仏が祀られ、トチの巨木がその歴史を現わしています。また、秋には見事な紅葉が周辺を覆い、古の情景を伝えてくれます。
看板より
豊照神社(とよてるじんじゃ)毘沙門堂
この社は上宮の真北にあたり、かつては毘沙門堂とよばれ、北側を守護する毘沙門天が祀られていました。毘沙門天は多聞天とも呼ばれ、四方を守護する四天王の一人です。
毘沙門天立像は平安時代の作とされる優れた等身大の木彫りの作品ですが、残念ながら表面の傷みが進み、現在は求菩提資料館で保存・管理しています。
明治5年(1872年)の「修験道禁止令」後に求菩提山護国寺は国玉神社となり、毘沙門堂も豊照神社と改められました。現在の堂社はそれ以降に神社建築で建て直されたものです。建築材を調べると江戸時代にさかのぼる古い材木が使われており、毘沙門堂の名残を伝えています。記録によれば、当時の毘沙門堂は現在の堂社と規模はほぼ同じで、屋根が茅葺であったと記されています。
看板より
獅子の口
ユーモラスな造形を見せる石造の頭部は、江戸時代の作と伝えられています。同様に獅子の口と呼ばれものは近隣の霊山では英彦山高住神社(田川郡香春町)にもあります。
この獅子の口は、上谷と杉谷が分かれる谷筋にあたり、参道から護国寺(現在の中宮)に至る玄関口に位置します。ここに流れ出る水は上宮の巨石の地下に源を発し、伏流した水は獅子の口阿Kら禊場(獅子の滝)に注いでいます。この水は甘露の水とされ、入山者は境内へ向かう坂を登り始める前に、ここで口と手を清めて一息ついたと言われています。
獅子の口の向かって左側に立つ高さ1.42ⅿほどの石塔は庚申塔です。求菩提山中では庚申塔が各谷(7坊中)の出入口に1基ずつ立てられていたとされ、現在の12基が現存しています。この庚申塔は上谷の出入口を示すもので、碑面には貞享2年(1685)に北之坊、坂口坊、常林坊、中西坊が連名で建立したと記されています。
看板より
鳥居
鳥居です。駐車場からこんなに離れていると 思わなくて 距離感が全然 わからなくて 結構 ヘロヘロになりながら なんとか 鳥居まで到着しました。
この辺りから 急に雰囲気が変わりました。
狛犬
狛犬様です。
手水鉢
手水鉢だったのではないかなと 思って 写真を撮りました。
配置図
配置図です。
國玉神社中宮
中宮です。
ここには、求菩提山修験道の中核を担った護国寺がありました。「求菩提山縁起」(くぼてさんえんぎ)によると、養老4年(720)も行善和尚(ぎょうぜんおしょう)が入山し、寺の建立をしたとありますが、定かではありません。本格的な伽藍の整備は、12世紀中ごろに求菩提山中興の祖とされる頼厳上人(らいげんしょうにん)によってなされたと考えられています。一番上の段には、神殿と拝殿からなる北山殿が、その脇に二層構造の多宝塔がありました。二段目には、南の犬ヶ岳を向いて鬼神社があり、三段目には寺の中心施設であった講堂がありました。一番下にある広場(松庭)では、松会(まつえ)など重要な祭事がとりおこなわれていました。
現在でも、そのうちのお田植祭が毎年春先に行われています。
なお、明治元年(1868)に出された神仏分離令により、ここは国玉神社と改められました。
看板より
「国玉神社」は、古くから求菩提(くぼて)信仰の中心とされてきた聖地です。求菩提山中腹の中宮と、山頂の上宮とがあり、かつては求菩提山護国寺と呼ばれていました。かつては講堂や2階建て以上の仏塔である多層塔(たそうとう)などを備えており、山伏たちが修行を重ねた場所でした。中宮には今でも鬼神社などの堂宇(どうう ※神仏を祀るための建物)が残っています。また、毎年3月の最終日曜日(※1)に開催される国玉神社の「お田植え祭り」は、県の無形民俗文化財に指定されている行事です。求菩提山の最大の祭礼が「松会(まつえ)」と呼ばれるもので、「お田植え祭り」はそのなかの田行事にあたり、今も大切に受け継がれています。祭りはその年の豊作をあらかじめ祝うという予祝祭(よしゅくさい)で、田植えにまつわる一連の農作業の風景を、松役という演者や子ども達が面白おかしく演じます。
※1、最終日曜日が30・31日になる年は、その1週間前の日曜日
御朱印
御朱印です。書置きのものを お受けしました。写真撮影、ブログ掲載許可もいただきました。ありがとうございました。
鬼の階段
中宮の奥の方にある 上宮へ向かう 鬼の階段です。鬼が一晩で 作ったと伝えられています。約850段の階段です。
東霧島神社にも あります。
多宝塔跡
多宝塔は求菩提山護国寺のシンボル的存在で、法華経の教えに基づいて建立されました。その構造は、二層の小坂茸の屋根に九輪の相輪を置き、高さは八間(約14ⅿ)に及んだといいます。発掘調査で、切石による基壇が後背面を除く三面で確認されています。また、小さいながら塔心礎(とうしんそ)という中心柱の基礎石も確認され、構造的には多層塔とするのが正しいようです。ただ、創建当時は、多宝塔として建立されたことが十分に考えられ、後の再建時に新たに塔心礎を設け層塔としたのかもしれません。明治25年(1892)に保存に向けて準備が進められますが、台風により同33年に倒壊し、今はその基壇だけが残っています。
看板より
鬼神社
鬼神社です。
鬼神社の御朱印です。
駐車場
駐車場です。この駐車場から、國玉神社の中宮まで 私の足(ゆっくりめの速度)で 30分くらいでした。時間と、体力がなく 上宮までは行きませんでした。また、余裕を持って 上宮まで お詣りしたいと思います。途中 崩れていたり、水が湧き出していたりするので、歩きやすい靴で行った方がいいと思います。
神社情報
國玉神社(くにたまじんじゃ)と鬼神社(おにじんじゃ)
福岡県豊前市大字求菩提202
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 631社目と、632社目の
御朱印をいただきました。
残り 368社です。
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