九州御朱印巡り 福岡御朱印巡りで、福岡県みやま市に鎮座する八坂神社(やさかじんじゃ)に、お詣りをして御朱印を拝受して来ました。大人形と大提灯の受けつがれ、語り継がれている特徴ある祇園祭行事がある神社さんです。今日で、453社目です。
鳥居
こちらの八坂神社さんは、毎月1日と15日の午前中は、社務所が開くと 聞いていたので、12月1日にお詣りしました。少し 通りを入ったところにあるのですが、到着するとたくさんの人が、いらっしゃいまして、何事かと思ったら 例祭の日でした。
少し待ち、駐車場が空き 停めて 社殿へ向かいます。
境内の中に 大きな池?があり、石橋を渡って 社殿へ向かいます。池には 鯉も泳いでいて 風情がありました。
手水舎
手水舎です。
社殿
社殿です。例祭で、たくさんの方が お詣りに来ていらっしゃいました。
由緒
伝承によると宇都宮弥三郎朝綱の嫡子小太郎藤原中次、弟重國の兄弟が祇園宮を奉護し神輿を筑後国へ下幸し、持参した藤の鞭を三つに切って「この藤の茂り栄えん所へ、鎮座し奉る。」と祈誓し、久留米と柳川と此の地上庄に立てたところが久留米と柳川の藤は枯れ、上庄の藤だけ生い繁ったので第八十代高倉天皇安元二年(1176年)六月十一日、この地に社を建立し奉ったと云われている。
看板より
1176年(安元2年)に宇都宮弥三郎の子、小太郎中次と重国により勧請されたという。1596年(文禄5年)の石高は『寺社領高覚書』(立花家文書の一つ)に瀬高上庄村内30石とある。また、立花親茂(後の立花宗茂)より50石寄進される。
関ヶ原の戦いによる敗戦で宗茂が改易され、田中吉政が柳河藩に入封するが、50石を安堵される。「田中筑後守殿家人数並知行付帳」では「58石 瀬高祇園領」とある。
田中氏が無嗣断絶になると立花宗茂が再度柳河藩主になる。1621年(元和7年)に宗茂により社殿再建される。「延宝九酉年知行取無足扶持方共」(1681年頃の史料)に「同断(50石)瀬高祇園宮社領」と「3石3舛1合 (瀬高祇園宮)宮司」とある。『旧柳川藩誌』では境内の広さ4町8反余りとある。
明治の神仏分離令により名称を八坂神社に変更。
社務所
社務所で 直書きでいただきました。写真撮影、ブログ掲載の許可もいただきました。ありがとうございました。
御朱印
御朱印です。お正月からは、見開きの御朱印も始められるそうです。(楽しみです♪)
大提灯
反射して 見えずらくて すみません。
大人形と大提灯
口伝によれば、のちの柳川藩主とんばった立花宗茂の夢の中に瀬高上庄祇園宮(現在、八坂神社)に参拝の途中突然筍山(たけのこやま)が崩れ、これを扇で打ち払い神殿に進まれると、ご神霊が立ち現れ何物か投げ与えられた。
これを扇で受けとめられると祇園宮のお守りでした。かねて徳川家との無事平穏を祈願するために、奥州で崇められてい源義家と阿倍貞任、宗任を祇園宮に合祀するよう将軍家のお許しを得られました。これより大人形の神事が始められたと伝えています。
大人形の神事は、源義家を右に阿倍貞任(または宗任)を左に立て、中央に祇園宮の神輿を安置して毎年六月十五日に祭典が行われ、柳川藩より藩主または家老を代参させて無病息災、恒久平和を祈願されていました。現在は新暦七月二十四日、二十五日に行われて、大人形の股をくぐれば病気をしないといいます。
大提灯は、上庄に祇園宮が勧請された時に、貧しい武士が雨の降る闇の夜、粗末な提灯と破れた傘をさして神霊をお迎えしたという故事によります。後世、この時使用した提灯や傘にちなんで作成奉納したのが始まりと伝え、毎年美術的工芸的に制作しています。七月二十一日には大提灯廻しといって、その年に制作した作品を竹に提げ祇園太鼓の奏でとともに上庄の町内を練り歩きます。
大人形と大提灯は、時空を超えて現在に至るまでに、上庄にある八坂神社に受けつがれ語り継がれている特徴ある祇園祭行事です。
看板より
大人形と、大提灯です。
この写真では わかりずらいですが、右端にもう一基 鳥居があります。同じ境内に 2社が並んで鎮座しています。もう、1社は、明日 紹介します。
神社情報
八坂神社(やさかじんじゃ)
福岡県みやま市瀬高町上庄155
御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
応神天皇(おうじんてんのう)
武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
八坂神社夏季大祭:毎年7月21日~25日
駐車場:境内の中に停められます。
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 453社目の
御朱印をいただきました。
残り 547社です。
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