九州御朱印巡り 鹿児島御朱印巡りで、鹿児島県志布志市志布志町に鎮座する宝満寺(ほうまんじ)に、お詣りをして御朱印を拝受して来ました。安産祈願や、お宮参りで訪れる人が多いお寺さんです。今日で64ヶ寺目です。
お釈迦様
お詣りしたこの日は コロナ渦で開催が中止されていた お釈迦祭りが久しぶりに開催される前日で、準備の最中のお詣りでした。甘茶かけの甘茶は まだ 入っていませんでした。
※ お釈迦さまに甘茶を灌ぎかけるのは、お釈迦さまの誕生を喜んだ龍王が、天から温かい水と冷たい水の二種類の甘露の雨を降らせたという伝説に因んだものです。
看板より
本堂
本堂です。
沿革
神亀年間に聖武天皇の勅願により建てられたとされるが、詳細は明らかではない。存在がはっきりするのは正和5年(1316年)に忍性の弟子である信仙英基により再建されたあたりからである。この時に奈良西大寺から持ち込まれた運慶作の如意輪観音像を本尊としたという。この本尊が安産に霊験あらたかとされ、一時は坊津の一乗院、慈眼寺と並んで「薩摩三名刹」と言われる大寺となった。しかし明治2年の廃仏毀釈によりあっけなく廃寺となった。
その後、明治19年(1886年)、大慈寺の説教所が跡地に建てられたが、この説教所も昭和7年(1932年)に廃止された。地元の宝満寺の信者により昭和11年(1936年)に再建されたのが現在残る宝満寺観音堂である。
龍神様
龍神様です。
本堂内
本堂の中は こんな感じです。写真撮影、ブログ掲載許可もいただきました。ありがとうございました。
寺務所
本堂の横にある こちらの建物で 御朱印はいただけます。インターホンがあります。
御朱印
御朱印です。
弘法大師堂・文殊菩薩堂・石神・石仏等がある ところです。実は 10年くらい前に一度来ていて 当時は 近くまで行けたのですが、現在は 崖崩れ、倒木の危険のため 立ち入り禁止になっています。
池?もあり、独特の雰囲気があって また お詣りしたいところです。
石碑
放浪の俳人・種田山頭火(たねださんとうか)の石碑です。
放浪の俳人・種田山頭火(たねださんとうか)が志布志を訪れたのは、昭和五年の秋のことである。十月十日福島から徒歩志布志に入り、鹿児島屋に二泊滞在しながら街中を行乞(ぎょうこつ)し、十ニ日志布志駅から都城へ向かっている。
この間山頭火は四十六の句を詠んでいるが、この旅の日誌「行乞記(ぎょうこつき)・あの山越えて」には当時の志布志の様子がいきいきと描かれている。
酒を愛した山頭火は、きき水の名人でもあった。旅に明け暮れた一生の中で水を詠んだ句は多く、行く先々で水を味わい、水に心を寄せており、晩年の彼は清澄の心境となっている。
【種田山頭火】
本名は正一、明治十五年十二月三日山口県防府市生まれ、生家は大地主。十歳の時に見た母の自殺の衝撃が彼の生涯につきまとった。神経衰弱のため早稲田大学文学部を二年で退学し帰郷、父が始めた酒造業を手伝う。明治四十二年結婚、翌年長男誕生。大正二年荻原井泉水の主宰する自由律俳誌「層雲」に入門、この頃から「山頭火」の号を用いる。大正五年酒造業破産、妻子を連れ熊本へ移り、商いをするが生活はすさみ離婚。
作句と飲酒の生活となる。同十三年暮、泥酔で市電を止めるという自殺未遂事件を起こし、見かねた知人が曹洞宗の禅寺に預け、翌年出家する。
大正十五年九州・中国地方を行乞流転し昭和四年熊本に帰る。翌年九月また旅に出る。同七年から約六年小郡の基中庵に入る。この時期最も多くのそして長い旅をしている。昭和十五年十月十一日四国松山にて死亡。享年五十九歳。
看板より
お釈迦祭りの由来
花祭り(お釈迦祭り)は、お釈迦さまの誕生日(四月八日)をお祝いする日のことです。正式には灌仏会(かんぶつえ)とも言い各寺院で法会が営まれます。お釈迦さまは、今から約二五〇〇年前ヒマラヤ山脈の麓にあったカピラの国、その国王である釈迦族の浄飯王と摩耶夫人の王子としてお生まれになりました。
灌仏会の行事は、推古天皇の(六〇六年)頃に誕生会として始まったようです。続日本記によれば、花御堂に安置したお釈迦さまの仏像に香水(甘茶)を灌ぎかける行事は、平安時代(仁明天皇八三三~八五〇年頃に)、宮中において初めて行われたと記されています。
看板より
駐車場
この日は お釈迦祭りのため 停められませんでしたが、普段は境内に停められます。
寺社情報
宝満寺(ほうまんじ)
鹿児島県志布志市志布志町帖6537
ご本尊:如意輪観音仏像
寺務所:比較的 午前中が開いているようです。
1000ヶ寺目指して 御朱印巡りします。
正確に言うと 寺社だけで 1000ヶ寺です。
今日で 64ヶ寺目の御朱印をいただきました。
残り 936ヶ寺です。
鹿児島の御朱印が拝受できる神社
鹿児島の御朱印が拝受できる寺社
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