九州御朱印巡り 熊本御朱印巡りで、熊本県八代市鏡町に鎮座する貝洲加藤神社(かいずかとうじんじゃ)にお詣りをして御朱印を拝受して来ました。「侍屋敷の鎮守」の邸内産土神として勧請された神社さんです。今日で、598社目です。
一の鳥居
一の鳥居です。近くに車を停める所がなく 一の鳥居まで行く 体力が残っていなかったので また 体力がある時に 写真は撮って来ます。
二の鳥居
二の鳥居です。
境内 入口です。大きな 狛犬様がお出迎えしてくれています。
手水舎
手水舎です。
狛犬
狛犬様です。
獅子?
獅子様?です。
拝殿
拝殿です。
由緒
熊本県八代市鏡町は、総面積の約80パーセントが海を埋め立てた干拓により開かれた土地である。鏡町近郊の干拓工事は、熊本藩主細川氏のもと、江戸時代の元禄期(1688年 – 1704年)頃よりはじまっているが、鹿子木量平(かのごき りょうへい、1753年 – 1851年)が中心となって行われた工事は特に大規模である。
鹿子木量平は、工事に臨む際、土木工事・新田開発の先駆者として加藤清正の神霊に祈った。そして息子の謙之助らと共に、1805年(文化3年)より1822年(文政5年)にかけて、100町、400町、700町という3度の大干拓工事を、困難の末に成功させた。
1822年(文政5年)、工事の完了後、量平は加藤清正霊の加護に報いるため、清正公を祀る本妙寺浄池廟より分霊を勧請し、新しい地域の守護神として神殿を創建した。はじめは神道と仏教の両部の宮寺であったが、1870年(明治3年)、神仏分離令により神祭に改め、村社に列した。
なお、鹿子木量平は、その遺徳を追慕して八代市鏡町の文政神社に祀られている。
当社は、安土桃山時代に活躍された武将加藤清正公(1562年~1611年)を祭神として御祀りしている。清正公は 武勲の誉れとともに、土木や灌漑治水(かんがいちすい)にも手腕を発揮された方でもある。
十九世紀初頭江戸時代末期の分か年間に、御国(みくに)一の貧地と云われた野津手永の惣庄屋に着任した鹿子木量平翁(かなこぎりょうへいおう)が、人民の困窮を救わんと新地開きを計画した時に、崇拝する清正公の霊廟に「大願成就のあかつきには新地の氏神様として勧請し永世に御祀り申し上げる」との願を掛けられ、工事に着手したことに由来する。
量平翁は息子鎌之助と共に、文化二年(1805年)から文政五年(1822年)にかけての十七年間に、百町、四百町、七百町、と三つの新地を次々と干拓する。
文政五年九月二十ニ日に、渓玉院日珖上人(けいぎょくいんにっこうしょうにん)以下僧や信者数十名に守られて本妙寺を出発した清正公の神霊を奉じた神輿は、同月二十四日に神殿に御鎮まりになった。当時新しい社寺の建立は禁止されていたが、藩主細川斉茲公の特別のお許しにより土地を賜り、「侍屋敷の鎮守」の邸内産土神として勧請された。明治三年には 村社に列せられる。
境内には末社として本殿向かって、右に市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)を祀る貝洲神社と、向かって左の綿津見大神(わたつみのおおかみ)を祀る和合神社がある。
また鹿子木量平翁は、鏡町両出にある文政神社の祭神として御祀りされている。
看板より
拝殿内
拝殿内には たくさんの絵が飾られています。
お守り・御札
お守りとお札です。
御朱印
御朱印です。境内横にある 社務所で直書きでいただきました。写真撮影、ブログ掲載許可もいただきました。ありがとうございました。
駐車場
駐車場です。二の鳥居の横と 道路を挟んだところに停められます。
神社情報
貝洲加藤神社(かいずかとうじんじゃ)
熊本県八代市鏡町貝洲699
御祭神:藤原朝臣清正公(加藤清正公)
例祭日:9月24日
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 598社目の
御朱印をいただきました。
残り 402社です。
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