九州御朱印巡り 熊本御朱印巡りで、熊本県八代市松江城町に鎮座する八代宮(やつしろぐう)にお詣りをして御朱印を拝受して来ました。御祭神は懐良親王で、八代城跡の本丸に社殿がある神社さんです。今日で、602社目です。
入口
八代宮さん・・・何回も近くまで来て なかなかお詣りできなかった神社さんで(覚えているだけで、5回は近くまで来ています)、たまに タイミングが合わず 御朱印をお受けできないことがありますが 今回やっと、お受けできました。(感無量)
鳥居
鳥居です。
狛犬
狛犬様です。
手水舎
手水舎です。お水はありませんでした。
四脚門(よつあしもん)
立派な門がありました。門に回廊と透き塀がつき、神殿を囲っています。
拝殿
拝殿です。
由緒
明治維新直後、征西大将軍懐良親王の御墓が 八代に決定され、熊本県、特に八代では、征西大将軍宮をお祀りしたいとの官幣社創立熱が湧き起こり、学者や有志らが明治政府に請願した。
その結果、明治天皇の思し召しにより、明治十三年八月三日付、創立が許され、旧八代城を社地として明治十七年四月二十日に御祭神、懐良親王の御鎮座大祭が斎行され、同十九年十一月十日に御配祀、良成親王が鎮斎された。
昭和八年は御鎮座五十年、懐良新王薨去後五百五十年にあたり、本殿等総での建物が改築された。昭和五十九年懐良親王御鎮座百年、昭和六十一年良成親王御鎮斎百年に向けて、境内地の整備や建物の改築改修が進み、更に平成二年祓殿新築、平成十一年境内神社「霊社」改築、平成十四年手水舎改築、平成十五年祭器庫改築がなされた。
征西大将軍両親王の御事績としては、南北朝時代に九州南朝の征西府が置かれ、その大将軍に後醍醐天皇の皇子懐良親王と、後村上天皇の皇子良成親王が、二代その職を相続された。延元三年(1338)後醍醐天皇は、官軍の再興を計られ諸皇子を諸国に派遣された。懐良親王は、当時七、八歳の御幼少であられたが、征西大将軍に任じられて鎮西へ下向され、幾多の辛酸を経て興国三年(1342)薩摩の津に上陸、これより三十年余りの長きにわたり吉野朝廷の回復を任とされ、九州一円を転戦された。天授元年(1375)征西大将軍の職を良成親王にお譲りになり、御自らは筑後の矢部に隠居され、弘和三年(1383)三月二十七に薨去された。御年およそ五十五、六歳であられた。
「歴代鎮西志」によれば、明徳二年(1391)「征西将軍良成親王北軍と和す」とあり、一時講和を結ばれた親王は、五条氏を頼られて筑後の矢部に赴かれ南朝の再興を図られたが、晩年の御様子は不明である。
パンフレットより
歴史
明治維新以降、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こり、懐良親王の墓所のある八代の住民からも、懐良親王と良成親王を祀る神社を創建し、鎌倉宮・井伊谷宮と並ぶ官幣中社にしてほしいという請願が何度かなされた。住民である徳富忠七や八代宮創立発起担当人の村上忠三ら[要出典]は、墓所から遠くない松江城(八代城)の址に神社を建てることを求めた。これを請けて1880年(明治13年)に太政官が熊本県に創立を命じ、懐良親王を祭神とし、良成親王を配祀する神社が八代宮の名で願い通りに造られることとなった。
同地には官有地と民有地があったが、1881年(明治14年)に民有地が神社のために寄付されたため、八代城址は全体が神社の境内になった。また神社の前から市街に通じる道路を開くこととした。建設予算は9463円80銭4厘で、寄付金2642円97銭4厘(寄付金2000円、残りは力役提供を金銭に換算)と官費6820円83銭で拠出した。
またこの年に、宮内省と内務省は霊代(神体)を社殿完成後に新しい鏡で納めることにすることを決めた。社殿が完成してから、明治17年(1884年)4月20日に鎮座祭が行われ、霊代が納められた。
お守りお札授け所
御朱印は、拝殿の横の御守お札授け所で いただけます。
お守り
お守りです。
御朱印
御朱印です。直書きでいただきました。(八がいい雰囲気です)写真撮影、ブログ掲載許可もいただきました。ありがとうございました。
夫婦松
鳥居の手前にある 夫婦松です。
駐車場
駐車場は、社殿を正面に見て 右側の方にあります。(少し離れています)
神社情報
八代宮(やつしろぐう)
熊本県八代市松江城町7−34
御祭神
主神、懐良親王(かねながしんのう)
配祀、良成親王(りょうせいしんのう)
主な年中祭祀
春季祭:4月20日
例祭:8月3日
秋季祭:11月10日
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 602社目の
御朱印をいただきました。
残り 398社です。
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