玖島城【長崎】天守閣はなく、平屋の御殿でした。

玖島城(長崎)御城印御城印
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長崎御城印(御城郭)巡りで長崎県大村市にある(くしまじょう)跡まで行って来ました。三方が海に囲まれ、敵から守りやすく、敵が攻めにくい海城をつくるのに適した場所に築城されたお城跡です。今日で御城印 21体目です。

 

台所口門跡

玖島城(長崎)入口

台所口門跡の入口です。桜が 散り始めていて 綺麗でした。

 

本丸跡

玖島城(長崎)絵図

本丸にあった御殿です。

玖島城 本丸跡

ここは、大村藩二万七万石の居城である玖島城の本丸跡です。玖島城は、慶長四年(1599)に造られた城です。その後、慶長十九年(1614)に大改修を行い、それまで北側にあった大手を南側の大手に改修し、この時、虎口門、台所門、搦手門の三つの入口の形が定まったと伝えられます。

本丸の敷地の内、西半分にあたる大村神社本殿のある一帯には大広間など侍詰所(政庁)があり、東半分の玖島稲荷神社のある一帯には藩主の居館がありました。城に天守閣はなく、平屋の御殿でした。本丸を巡る石垣の上には塀を巡らし、矢狭間、鉄砲狭間、石火矢狭間が設けられ、護摩堂や多聞櫓があったと記録されています。

上の絵図は江戸後期の玖島城本丸を描いたもので、政庁や藩主居館の位置や間取りを見ることができます。

玖島城は、明治四年の廃藩置県で大村県庁が置かれましたが、すぐに長崎県に合併されたことにより不要となり、建物は取り壊れました。その後、明治十七年に旧藩家臣により大村家歴代を祀る大村神社が建立され、現在に至っています。

看板より

大村市民に親しまれている大村公園は、桜や花菖蒲の季節には県内・県外からもたくさんの人が見物に来ます。この公園は、初代藩主大村喜前(よしあき)が築き、12代藩主純熈(すみひろ)まで270年あまり、大村藩の政治の中心になった玖島城の跡です。

戦国時代の終わりごろから、鉄砲が使われるようになると、戦争の方法が大きく変わっていきました。鉄砲や大砲から城を守るため高い石垣を築き、水をはった堀を巡らせていきます。そのため城を築く技術が大変発達し、櫓(やぐら)や塀をつくり、天守まで建てるようになりました。城づくりの専門家や職人集団も生まれました。また、領主は家来を城下に集め、城下町を造るのに便利な所へ城をつくる必要がありました。こうして今までの山城から、平山城(ひらやまじろ)や平城(ひらじろ)に変わっていきました。

こうした中、天下を治めていた豊臣秀吉が亡くなると、秀吉のあと誰が天下を取るか決まらず世の中が不安定になり、大名たちは戦乱にそなえて城を築きはじめました。喜前も三城城に替わる新しい城づくりにかかりました。始め杭出津の地を選び、築城を始めましたが、玖島の地が城に適していることがわかり、玖島に築城することになりました。玖島が選ばれた理由は、三方が海に囲まれ、敵から守りやすく、敵が攻めにくい海城をつくるのに適した場所だったからです。

喜前は、秀吉の朝鮮出兵の際、名護屋城や壱岐の勝本城の築城を手伝い、中央の新しい城づくりの技術に触れています。また、朝鮮の地では、各地に日本式の城を築き、戦いの拠点にしてきました。このような城は倭城(わじょう)と呼ばれています。喜前は順天の倭城に立て籠もったとき、海に囲まれた城は守りやすく攻めにくいとの教訓を学んだといわれ、このような経験が玖島城の築城に活かされることとなります。

玖島城築城の工事は慶長3年(1598年)の末から始まり、翌年の慶長4年(1599年)に完成しました。築城されたころの大手口は城の北側にあり、大手口に入る道は大村小学校と寺井医院との間に道がのびていました。今でも自然の石をつんだ野面(のづら)積みの石垣と土をかためた土塁が残っています。

慶長19年(1614年)に、2代藩主純頼(すみより)のとき、玖島城の大改修が行われました。改修については、肥後の大名で熊本城を築いた加藤清正が喜前と親しかったことから、清正の指導を受けたといわれています。この改修で、大手口を南側に移し、大手門周辺は石を加工した「打ち込みはぎ」と呼ばれる方法で石垣を築きました。今も大手口から板敷櫓の方に向かって美しい曲線をした石垣が残っています。城の中は本丸、二の丸、三の丸からなり、6つの櫓(やぐら)を建てました。本丸には天守閣はなく、藩主の館や藩の政治を行う場所が置かれました。城のまわりには、堀を巡らし、海の中にも捨堀などを巡らして敵が簡単に近づけないようにしました。

城の周辺に藩の政治をとりしきる藩会所(はんかいしょ)、藩主の別邸の桜田屋敷、藩内の産物の取引にあたる産物会所、土木工事などにあたる普請役所、藩の学校である集義館(のちに五教館)などが建てられました。海側には米を貯蔵する新蔵、その積みおろしをする新蔵波止などがつくられました。また、藩主の船を納めたお船蔵もあり、現在もその跡を見ることができます。

玖島城は一度も戦火にあうことはなく、明治4年(1871年)の廃藩置県によって役目を終えました。

大村市ホームページより

 

本丸跡地

玖島城(長崎)本丸跡

大村神社の本殿の後ろの方にある 大村喜前の銅像です。

 

大村喜前

玖島城(長崎)中祖大村喜前公遺徳碑

中祖(ちゅうそ)大村喜前(よしあき)公遺徳碑(いとくひ)

大村喜前は永禄十二年(1569)、キリシタン大名大村純忠(すみただ)の長男として生まれ、二歳で受洗(じゅせん)し洗礼名をドン・サンチョと称しました。その後一時期、佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)のもとで人質として過ごしました。

純忠の没後に第十九代当主として大村家を相続し、秀吉の九州攻めや朝鮮出兵に従軍し戦功をたてました。秀吉の死後には天下の不穏な情勢に備えて、慶長四年(1599)に玖島城を築きました。徳川幕府が開かれると領地を安堵され、初代藩主に就きます。

一方、大村領であった長崎外町と幕領浦上の替地にイエズス会が関わったと疑い、いち早く棄教して日蓮宗に改宗し、本経寺など多くの社寺を建立しました。

慶長十二年(1607)には「御一門払い」と呼ばれる家臣団の改革を行い、藩主権力を強化し、家臣団の結束を強めるとともに、二回にわたる領内の検地で財政基盤を強化するなど、藩政の基礎固めを進め、元和二年(1616)四十八才で亡くなると本教寺に葬られました。(後に「中興の祖」とたたえられました。)この碑は大正四年(1915)に建立されました。

看板より

 

大村駅前観光案内所

大村市観光案内所

御城印(御城郭)は、すぐ近くにある 大村駅前観光案内所で 購入することができます。

 

玖島城(長崎)大村市観光案内所入口

入口を入って 右側にあります。

 

玖島城(長崎)御城印

左側が通常の御城印(御城郭)で、右側が 期間限定の御城印(御城郭)です。

 

御城印(御城郭)

玖島城(長崎)通常御城印

御城印(御城郭)です。

 

玖島城(長崎)観光案内所受付

受付けには、おむらんちゃんグッズが たくさんありました。

 

いなほ焼き

大村市観光案内所横いなほ焼き

いなほ焼きの幟が気になり 立ち寄ってみました。

 

プレーン味

大村市観光案内所横いなほ焼き

いなほ焼きは 鹿児島にはなく 福岡にあるのは 知っていたのですが、大村にもあって 嬉しく 買ってみました。お好み焼きとたこ焼きを足して 割ったような お味です。

 

大村市観光案内所横いなほ焼き中

大きなたこが ゴロゴロ入っていて とろっとした感じで 美味しい~

 

チーズ味

大村市観光案内所横いなほ焼きチーズ

こちらは チーズが入ったやつです。

 

大村市観光案内所横いなほ焼きチーズ中

こちらにも 大きなタコがゴロゴロとして チーズがたっぷりで プレーン味より なめらかで 美味しい~ 1個づつしか 買わなかったのですが もう少し買えばよかったと思いました。

 

駐車場

大村市観光案内所(長崎)駐車場

すぐ 横に 駐車場はあります。

 

 

施設情報

大村駅前観光案内所

長崎県大村市東本町1番地1

営業時間:9:00~18:00

定休日:毎月第3木曜日(9月・3月を除く)、12月31日から1月4日

 

 

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