宮崎御朱印巡りで、宮崎県えびの市に鎮座する白鳥神社(しらとりじんじゃ)にお詣りして、御朱印をいただいて来ました。ご利益は、開運厄除、身体健固でヤマトタケルノミコトをお祀りしている神社さんです。今日で 36社目です。
鳥居
鳥居です。こちらが 鳥居です。くぐると階段が続いています。ですが、上の方の社殿に近い所にも駐車場があります。5分くらいかな?は 階段を上がらないといけないので きつい人は上の方に直接行くといいと思います。
手水舎
手水舎です。写真ではわかりずらいdすが、龍神様がいらっしゃいます。
社殿
社殿です。
由緒
当社は、約1050年前に性空上人により御創建され、樹齢500年の御神木をはじめ10数本の古木がそびえ立つ。本殿の雲龍巻柱、唐獅子牡丹など彫刻が見ものである。
白鳥山の北側山腹に鎮座し古く六所権現とも称した。社伝によると、村上天皇応和(また天暦とも言う)年間、京都の僧、性空上人日州霧島に来たり、白鳥山頂六観堂で修行していた時、老翁が現れ「我は日本武尊なり、来たりてこの山に住む事久し、汝我がために神社を設けよ」と託宣、たちまち白鳥と化して飛び去った。性空、この託宣により社を創建し、聖観音を本地とし、さらに別当満足寺を造営したという。軍神として古来より崇敬を集めていた。天正四年(1576)九月、島津義久が当社へ参詣しており、その後も島津家代々崇拝していたとみられる。天正二十年(1592)四月には、当社領三十町が諸役免除となっている。特に島津義弘は信仰厚く、慶長六年(1601)から十年にかけて新たに社殿を造営し、神領二百石を寄進している。その後、戦勝祈願の神として島津氏は、たびたび当社で祈祷を行い、勝利感謝の寄進をし篤く崇敬していた。
明治維新後白鳥神社と改称、明治三十八年県社に列し、同四十年二月神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。社殿の竜の彫物は江戸時代末期のもので、その他の建造物は昭和十年再建のものである。大東亜戦争前には、例祭に天鈿女命の舞である神化舞が奉納されていた。別当満足寺は白鳥山金剛乗院と号し、はじめ天台宗であったが、応永年間光尊阿闍梨が真言宗として再建した。光厳の中興後、大乗院(現鹿児島市・最大乗院)の末寺となった。『三国名勝図会』によると、往時は参詣客も多く隆盛であったが、明治三年廃寺となった。
絵馬
神社名の白鳥の絵馬です。
社務所
社殿を正面にして 境内の中の右の方にある 社務所です。こちらで御朱印は書いていただけます。
鬼門守
鬼門守という 御守?がありました。鬼門にお祀りする御守です。初めてみました。
白鳥御神杉御守
オリジナルの白鳥御神杉の御守です。樹齢300年の御神木の御守です。健康長寿の御利益です。
御朱印ですが、書置きの御朱印もありました。以前 お詣りした時には 社務所が開いていなくて 書置きの御朱印を拝受しました。今回 初めて 社務所が開いていて 御朱印帳に直書きの御朱印を拝受しました。
御朱印
こちら御朱印は 最初 お詣りした時の 書置きの御朱印です。
境内の一角です。
御神水
境内の一角の手水舎の横に 御神水がありました。自由に汲んでもいいみたいでした。
開山性空上人御堂
境内に行く途中に 開山性空上人御堂があり お詣りさせていただきました。
白鳥神社を創建された性空上人御尊像のご説明
この2つの上人像は、「郷土の歴史文化を伝承する会」が、上人の事跡を讃え遺徳を偲ぶため制作奉納したものです。木像は楠の大木(直径80cm)を使い、市内上江の石膏細工師二ノ宮昇氏(83)と白鳥の彫刻師小野侑氏(67)の2人によって約3か月掛けて制作され、また石像は重さ約2トン余の原石を使い、人吉市の石材彫刻師吉田満氏(79)のよって約4か月掛けて制作されました。石像の台座は白鳥の石工市原泰見氏(73)が制作。上人堂は白鳥神社が白鳥の大工棟梁奥松将弘氏(50)に依頼して建築造営され、平成21年3月完成。同年春の例大祭で落成祝賀と同時に性空上人御尊像の開眼供養祭が厳粛盛大に行われました。
看板より
駐車場
広い駐車場なので 停めやすいです。
神社情報
白鳥神社(しらとりじんじゃ)
宮崎県えびの市大字末永1479番地
御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)
御神徳 開運厄除 身体健固
例祭日 9月23日
1000社目指して 御朱印巡りします。
正確に言うと 神社だけで 1000社です。
今日で 36社目の御朱印をいただきました。
残り 964社です。
宮崎県の御朱印が拝受できる神社
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