末廣神社【大分】三島宮を勧請したことから始まり

末廣神社(大分)御朱印 大分県の神社御朱印
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大分御朱印巡りで、大分県玖珠郡玖珠町に鎮座する末廣神社(すえひろじんじゃ)にお詣りをして御朱印を拝受して来ました。本殿(1828年完成)及び覆屋附棟礼二枚が県指定文化財に指定された神社さんです。今日で、691社目です。

 

鳥居

末廣神社(大分)鳥居

鳥居です。

 

手水舎

末廣神社(大分)手水舎

手水舎です。

 

末廣神社(大分)花手水

花手水にしてありました。綺麗です。

 

狛犬

末廣神社(大分)狛犬

狛犬様です。

 

拝殿

末廣神社(大分)拝殿

拝殿です。

「末廣神社」は、1601年に森藩主久留島康親が郷里の伊予国の氏神である三島宮を勧請したことから始まりと言われています。
本殿の覆屋は“鞘堂”と呼ばれ、細部まで趣向を凝らされた大規模で本格的な構造を持った建築物です。
また、同じ敷地に建つ「栖鳳楼(せいほうろう)」は、城を持つことを許されなかった森藩の8代目・久留島通嘉が、天守に見立てて改修したと言われる茶屋であり、県の有形文化財に指定されています。

大分県観光情報公式サイトより

1601年、森藩藩主来島康親が、来島氏の故地である伊予国大三島の大山祇神社を勧請して三島神社を創建したことに始まる。

森藩はその規模故に城を持つことが許されず、角埋山の山麓に政庁となる陣屋(森陣屋)を構え、藩の運営を行った。第八代藩主久留島通嘉の時代、森陣屋にあったこの三島神社の改築を口実として大規模な改修を行い、1837年に森陣屋を含む境内をまるで城構えの様に作り上げた[2]。これが現在の三島公園に繋がる。

1872年、妙見宮(天御中主神)を合祀。1873年、郷社に列するとともに社名を末広神社(末廣神社)に改める。1936年県社に昇格。

1996年、本殿(1828年完成)及び覆屋附棟礼二枚が県指定文化財に指定された

ウィキペディア(Wikipedia)より

 

御朱印

末廣神社(大分)御朱印

御朱印です。書置きのものをお受けしました。ありがとうございました。

 

玉濃井(たまのい)

末廣神社(大分)玉濃井

玉濃井

深さは七十三尋(ひろ)といい、中程に三間(約六メートル)四方位の広い所があります。そこから、抜け穴が通じていると伝えられています。この井戸は大正十年の大洪水で破壊し資金難から埋め立てることになりましたが、これに反対した元小学校長宿利政太氏は、一般有志に呼びかけ種々奔走して、ついに昭和四年七百五十八円余りを費やしてようやく復旧させました。

看板より

 

日本一大きな手水鉢

末廣神社(大分)日本一大きな手水鉢

巨大な岩石をくりぬいたこの手水鉢は、角埋山の中腹から引き寄せたと言われますが、一体何人でこの巨石をひっぱったのでしょうか。石工には、石の粉一升を彫れば小銭一升を与えるとして奨励し、彫らせたとも言われています。その前の二個の二段の踏み石(水を汲むための石)も巨大です。

鉢の容量は、七石(約一二六〇リットル)

看板より

 

鎮西八郎射ぬきの石

末廣神社(大分)鎮西八郎射ぬきの石

「豊後国志」巻之七「角埋山」の項によると、久寿年間(一一五四~五六)に源為朝(ためとも)が城を角埋山に築きこれに拠る、とあります。為朝は十三歳の時、父に追われ九州に勢力を張り、朝廷の召喚にも応じませんでした。為朝は強弓(ごうきゅう)の名手として名高く、向かいの岩扇山から射た矢が、この石を貫いたと言われています。

看板より

 

駐車場

末廣神社(大分)駐車場

近くに駐車場はあります。すぐ 近くには、久留島氏庭園、清水御門や、栖鳳楼という建物もあります。私は時間がなく 行けませんでした。

 

 

神社情報

末廣神社(すえひろじんじゃ)

大分県玖珠郡玖珠町森864

御祭神

主祭神: 大山積神(おおやまづみのかみ)

(合祀)天御中主神(あめのみなかぬし)

 

 

正確に言うと神社だけで1000社です

今日で 691社目の

御朱印をいただきました。

残り 309社です。

 

 

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