熊本御朱印巡りで、熊本県天草市本町に鎮座する鈴木神社(すずきじんじゃ)にお詣りして、御朱印をいただいて来ました。天草復興に尽力した鈴木家にゆかりがあり、今も「鈴木さま」として信仰されていて、たくさんの種類のお守りもある神社です。今日で 24社目です。
鳥居
鳥居です。石造りの鳥居で、階段を上った少し上の方にあります。
手水舎
手水舎です。小さく鉢のフォルム?が 丸く優しい感じの手水舎です。
狛犬
社殿の前にいらしゃる 狛犬です。爪と指がはっきりと 作られていました。
社殿
鳥居をくぐり また 階段を上がった上に社殿があります。
遺徳を偲び鈴木神社を建立
天草・島原の乱の後、天領となった天草初代代官に任じられた鈴木重成公は、荒廃した天草の復興に尽力。天草の人々を苦しめてきた重税を減らすため、石高半減を幕府に嘆願して、切腹して果てました。天草の人々はその遺徳を偲び、その霊は神社に祀られています。
重成公は三河藩(愛知県)東加茂郡の足助城城主鈴木重次の三男として誕生。長兄の正三公は後に出家して禅僧となったため、家督は重成公が継ぎました。重成公は上方代官を歴任した後、天草・島原の乱には鉄砲隊長として参戦。老中松平信綱の信任が篤く、乱後も天草の実態調査を命じられました。
天草の公式の石高が四万二千石のままでは、重税の圧迫はどうしようもありません。重成公は詳細な検地を行い、天草の石高半減を強く老中の松平信綱に訴えられます。幕府にも威信がありますから、簡単に承諾する訳にはいかない。承応二年(一六五三)、重成公は真情を綴った建白書を残し、江戸の自邸において切腹して果てられたのです。日本で初めて、農民のために命を捨てる武士が現れたのです。
切腹した場合、お家断絶になるのが通例ですが、幕府では病死扱いにして子の重祐に家督を継がせ、養子の重辰(しげとき)(正三の実子)を二代目代官に任じるという異例の処置を取ります。天草の人々は代官に心服している。鈴木家でなければ、もはや天草は治まらないことを幕府は熟知していたのです。
重辰公は石高半減の訴えを繰り返し行い、ついに重成公の七回忌に松平信綱と阿部忠秋の連名で石高半減の通知が下されたのです。
天草の東向寺領の一角には重成公の遺髪が埋められ、遺髪塚が築かれました。鈴木塚はその後、天草三十余ヶ所に分祠され、今も「鈴木さま」として信仰されています。
根本となった遺髪塚(本渡市本町)には重成公祀る鈴木神社が建立され、後に兄正三公、養子重辰公も祀られました。重成公の切腹説には疑問を呈する向きもありますが、切腹という非業の死を遂げられたからこそ、島民はその魂を鎮め感謝法恩の念を表わすために神として祀ったにちがいありません。
中国には「最初に井戸を掘った人のことを思え」という名言があります。天草にしてみれば、その人が重成代官であり、現代の人々もその井戸の水の恩恵を受けているのです。
絵馬
可愛いだるまさんの絵馬がありました。(合格しそうです)
社務所
社殿より 少し下の方に 社務所があります。
ボタン
中に入って 声を掛けましたが 応答はなく 諦めて帰ろうとすると 友達がボタンを発見!
恐る恐る押してみると 返答があり、御朱印をお願いすると すぐに来ますとのことで 書いていただきました。
受付?です。
御守
いろいろな種類の お札や 御守、破魔矢などがありました。
御守も いろいろな色、形のものがありました。
御朱印
御朱印です。朱印料を納めようとしたら
「お詣りされたのなら 結構です」と言われたのですが、再度、社殿に向かい 朱印料を納めさせていただきました。
御祭神、例祭日などを 調べたのですが わかりませんでした。また、わかり次第 紹介したいと思います。
神社情報
鈴木神社(すずきじんじゃ)
熊本県天草市本町本671
御祭神 不明
例祭日 不明
駐車場 あり
1000社目指して 御朱印巡りします。
正確に言うと 神社だけで 1000社です。
今日で 24社目の御朱印をいただきました。
残り 976社です。
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