九州御朱印巡り 福岡御朱印巡りで、福岡県福岡市西区に鎮座する飯盛文殊堂(いいもりもんじゅどう)に、お詣りをして御朱印を拝受して来ました。貞和五年銘梵字板碑や、市の文化財に指定された木造文殊菩薩騎獅像があるお寺さんです。今日で39ヶ寺目です。
入口
飯盛神社さんを後にして 飯盛文殊堂へ 向かいます。
本堂
本堂です。
縁起
神仏習合両部の時代
七宇の末寺を有する飯盛神社の宮司坊真言律宗神宮寺
号して飯盛山真教院
伏見院の永仁六年戊戌(1298)因幡二郎左衛門尉康成の開基にして
康永元年七月二十五日(1342)に本堂安置を終え、博多大乗寺長老暁海上人を
導師として開眼法要を行いましたのが当神宮寺の開山であります当時、仏教思想が全国に普及した折り、仏又は菩薩が衆生済度の方便として
和光同塵
仮に種々の身形を現ずる事を信じ本地垂迹の説により此の権現の思想を
我が国在来の諸神に結びつけ我が国の神祇は仏に帰依せらるるとの信仰に生じ
神は仏の“かり”に化現したものであるとし、此処に神宮寺が生じた次第であります大和の国唐招提寺を総本山とし西大寺の末寺として西大寺流の繁栄と共に栄え
“七堂伽藍”の大寺とし末寺七ケ寺を有し
飯盛神社と共に隆昌を極めましたが
足利幕府の衰乱に廃地となり文珠堂のみ僅かに残りました寛文の頃(1660)これを再建し
福岡源光院の弟子澄海を招いて庵主とした
此れ即ち神宮寺の再興であり
是より天台宗となり元禄年中(1690年代)には比叡山正覚院に属し
藩主より三千六百坪の寄進がありました本寺及び末寺の全く廃寺となったのは実に廃仏毀釈の砌であり
現在成就院の飛地境内として地元崇敬者等の手により
「飯盛文珠堂保存会」が結成され力強くお護り申し上げております
御朱印
御朱印です。飯盛神社さんの社務所で 拝受しました。写真撮影、ブログ掲載の許可もいただきました。ありがとうございました。
飯盛神社
貞和五年銘梵字板碑
板碑とは 供養のために建てられた石塔婆(せきとうば)の一種で、中世特有の石造物といわれています。この文殊堂境内の板碑は、結晶片岩を用いて造られたもので高さ83センチ、幅55センチをはかります。
正面上部の文殊菩薩(マン)を示す梵字を薬研彫りしています。梵字の下には3行の銘文があり、貞和五年(北朝年号、1349年)供養のため建てられたことなどが記されています。
本板碑は堂内安置の文殊菩薩騎獅像(市指定文化財)が、元弘3年(南朝年号、1333年)に造られたものであることと合わせ、本市における南北朝時代の政治状況を示した貴重な文化財です。
看板より
知恵の水
三人寄れば文殊の知恵
日本三大文殊菩薩様
飯盛の文殊様はお釈迦様の脇侍として 知恵を司り 訪れ来たる人々に尊い悟りの御心をお授けになられます。
水は天からの頂きもの、天より注ぐ一滴の水が 凡そ百五十年の時を経て今、清水となり頂いております
合掌し 感謝の念を表すとき必ず菩薩さまのお恵みが訪れるでしょう
有り難く そして喜びの心を表して お持ち帰り下さい。
合掌祈念
看板より
中心部分より 水が湧きだしています。どうやって 汲むのか わからずにいると 地元の方が こうやって 汲むんだよと教えてくれました。
ホースがあり 中心部分に差し込み ホースから 入れ物に移します。
ありがたく頂戴しました。地元の方のお話しでは、頭がよくなるらしい・・・(楽しみ♪)
水汲み場の裏の方から 頂上に向かう参道が続きます。
予定時間より 早かったと、中宮の御朱印を拝受したので 中宮へ向かうことにしました。(これが、ちょっと大変でした)
一応 道らしい道はあります。
写真では わかりずらいと思いますが、高さのある崖です。20分ほど 1人でゆっくり目のペースが進んだのですが、前夜いつものように 遠足前の子供並に 興奮して眠れず、朝早く長距離を運転していて 貧血のような感じと、小鹿のように 膝がガクガク・ブルブル状態で 体調が悪くなる寸前で、中宮は断念しました。(T△T)
次回(現在、筋トレしてます) 中宮に、万全の体調でお詣りしたいと思います。(後から気が付いたのですが、他のルート?があったみたいで、そちらだとスムーズに行けたかも・・・)
ということで、福岡・佐賀方面に行って来たので しばらく 福岡・佐賀方面を紹介していきます。数日、福岡(子供宅)に滞在している間 筋肉痛で大変でした。
寺社情報
飯盛文殊堂(いいもりもんじゅどう)
福岡県福岡市西区大字飯盛763
御本尊:木造文殊菩薩騎獅像(もくぞうもんじゅぼさつきしぞう)
1000ヶ寺目指して 御朱印巡りします。
正確に言うと 寺社だけで 1000ヶ寺です。
今日で 39ヶ寺目の御朱印をいただきました。
残り 961ヶ寺です。
福岡県の御朱印が拝受できる神社
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