佐賀御朱印巡りで、佐賀県鹿島市に鎮座する祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)にお詣りをして御朱印を拝受して来ました。商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全等種々の祈願が絶えない神社さんです。今日で、739社目です。
鳥居
たぶん 三の鳥居だと思います。駐車場が 境内に近い方に停めたので神社側から写真を撮りました。一の鳥居から 境内までの参道で 食べ歩きもできるみたいです。また、今度 ゆっくりお詣りに来たいと思います。
参道
橋を渡って 本殿に向かいます。
案内図
境内の案内図です。
お狐様
稲荷神社なので お狐様がいらっしゃいました。
手水舎
手水舎です。
楼門
楼門です。
上の方に 本殿があります。
本殿
本殿です。
ご由緒
貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰されております。
日本三大稲荷の一つに数えられ商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全等種々の祈願が絶えず、参拝者は年間300万人に達しています。御本殿、御神楽殿、楼門等総漆塗極彩色の宏壮華麗な偉容は、鎮西日光と称され、観光ルートの上にも異彩を放っています。
古来、杵島郡の東部白石諸郷の鎮守にして、杵島山中の一峰稲佐山の半腹にあり、往古は同山南の尾向横平山に在しと傳ふが鎮座年代久遠にして之を詳にせず。
社伝に曰く、鎮座大神は天地倍判の代草木言語の時、天降りまして、国家を造立し給ひし天神及び五十猛命の神霊にして、五十猛神がこの山に樹木の種をまいて繁茂させ、「木の山」と呼ばれたと云う。
後世推古天皇の御宇、百済国の王子阿佐来朝し此地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廊を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。其の後、里人阿佐の霊を合祀して稲佐三社と云へり。
推古天皇十五年(606)聖徳太子の命を奉し、大連奏河勝、当国を巡察し、田畑を開拓すること、十萬、大いに稲佐神社を尊崇す、又聖徳太子は聖明王の佛教伝来の功を追誉せられ、河勝に命じて同父子の霊を稲佐神社に合祀せしめ、大明神の尊号を授けられたりと伝う。又、大同年中(806~)釈氏空海、神託を蒙りて当山を再興し稲佐泰平寺と名付けた、後稲佐大明神参道には真言寺十六坊が建立以来仏教守護の神として信仰を集むるに至る。
貞観三年(861)従五位下、仁和元年(885)従五位上を授け賜う事、三代実録に見ゆ。
文治三年(1187)白石五郎通益、白石郷の地頭職に就きたるや、大いに稲佐神を尊崇し、その荒廃せるを憂い、源頼朝にその再興を請い、翌年造営完成す。社人社僧を置き、武人をして流鏑馬式を行はしむる。(例祭の神事として今日に至る)以来後裔篤く稲佐大明神を尊崇し、白石六郎通泰に至りては、蒙古来襲(文永の役1274・弘安の役1281)の報せを受け稲佐大明神の御前に武運長久を祈願し出陣、元軍撃退の功勲顕著なり(蒙古襲来絵詞に描かる)亀山上皇より社領を加へられ、神恩に報いたり。
後、竜造寺・鍋島の領となり、歴代藩主も大神を尊崇し、山林の寄進・寺禄の支給・神域の復古などをなし、神徳益々発揚し、この白石郷の宗廊として郷人の崇敬を集めることとなる。
パンフレットより
お祓い受付
御朱印は こちらのお祓い受付で いただけます。
オリジナルの御朱印帳もあります。(写真は撮れず・・・)御朱印も 郵送対応してもらえます。詳細は ホームページを確認してください。
御朱印
御朱印です。直書きでお受けしました。ありがとうございました。
奥の院
絶対にお詣りしたいと思っていた 奥の院ですが、他の予定を入れていて 時間がなく泣く泣く諦めました。次回は絶対 お詣りしたいと思います。
神社情報
祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)
佐賀県鹿島市古枝乙1855
御祭神
倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)
大宮売大神(おおみやのめのおおかみ)
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
年中行事:ホームページを確認してください。
駐車場:私が確認しただけで 2か所ありました。
一の鳥居の近く(境内迄距離あり)と橋の近く(近く30分以内は、無料)
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 739社目の
御朱印をいただきました。
残り 261社です。
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