九州御朱印巡り 宮崎御朱印巡りで、宮崎県えびの市に鎮座する菅原神社(えびの市西川北)(すがわらじんじゃ)さんに、お詣りをして御朱印を拝受して来ました。道真公は農を勧める心があつく牛馬を愛したと言われ、このことから始まったとされる牛越祭がある神社さんです。今日で、358社目です。
鳥居
石造りの大きな鳥居です。ナビで迷うことなく 無事に到着しました。
参道
鳥居から 社殿まで 結構な距離があります。
入口には 仁王像様がいらっしゃいます。
仁王像
今まで見たことがない 独特の雰囲気の仁王像様です。
牛
仁王像のすぐ後ろの方に 牛様もいらっしゃいます。この牛様 足のひづめまで作られていて、しっぽが 可愛いです。
鳥居
木で 見えませんが 鳥居です。
手水舎
手水鉢が 石で作られていて 三本足?になっています。
本殿
本殿です。
由緒
『三国名勝図会』より摘記すると、「天満宮大聖威徳天神宮東村にあり、所(レ)祀北野宰府威徳の三天神と云。共に菅丞相相道真の霊なり。威徳は本朝神社考に日、昌泰四年(901)因(二)左僕射藤時平の讒(一)左(二)遷大宰都督(一)而薨。未(レ)死先自裁(レ)疏訴(二)天帝(一)其霊奮激為(二)威徳天神(一)也云々 祭祀毎歳十度其中十月十日を正祭とす。闔邑の総鎮守なり。昔時道正某なるもの京都より勧請せしとぞ。飯野邑の市坊道正三左衛門は其の子孫といひ、家に笈を蔵む。是を護り下れる時、神体を安んぜしものなりと、祭祀の日、今に其の笈を携へ来たりて祀事に与る。松齢公飯野城に在し時崇敬し給ひ、正祭には鏑流馬を帳行せられたり。伝云、当社火災に罹り古来の由緒記事等焼失し万治の年(1658)再興す。社司黒木主税座主威徳院。道正某の御神体を護り下る時、御供人として旧島内村の十六門の者来りて永住す。」とある。
寬文五年(1665)五月宝殿改築。社格は往古より郷崇社と唱え旧藩時代馬関田(まんがた)郷の総鎮守であったが、旧吉田馬関田両郷合併し真幸郷となり明治五年八月二日郷社となる。昭和四十九年一月本殿は市の文化財に指定される。
○境内社
若宮神社 祭神 神功皇后・応神天皇・保食神
豊受神社 祭神 保食神
左門守神社 祭神 豊磐間戸神
右門守神社 祭神 櫛磐間戸神
御朱印
書置きの御朱印が 賽銭箱の近くにあります。
2種類の御朱印です。
私は こちらの御朱印を拝受しました。
境内には 本殿の他にもう一社?(でいいのでしょうか?)があり そちらの方には 牛越祭の由緒の看板と、牛様の石像がありました。
牛越祭
特殊神事
七月二十五日輪くぐりしを行う夏越祭、道真公は農を勧める心があつく牛馬を愛したと言われ、このことから始まったとされる七月二十八日の牛越祭りが、境内にある豊受神社で行われる。江戸時代後期には市内はもちろん、熊本県球磨や鹿児島県菱刈地方から参拝する牛は数百頭に達し、高さ五〇センチメートル長さ四メートルの丸太ん棒を牛に飛び越えさせて、厄を祓ったといわれる。また、馬関田神楽も伝承されている。
宮崎神社庁ホームページより
菅原道正公が牛を愛し、その繁栄を図るため、菅原神社の南方に保食神社と大日様を安置して以来 この祭が起こったと伝えられている 明治元年、神社仏閣が整理されたとき、この祭も同時に廃止されたが、明治七年に牛馬の伝染病が流行し神社の再建を当時の宮崎県参事に願い出て復活した史実がある。全国的にもめずらしい祭である。
一部抜粋して 看板より
宮崎神社庁ホームページに 写真があるのですが、迫力があって 機械があれば是非 見てみたいです。
※ こちらの御朱印は 高原町に鎮座する 挟野神社さんの神主さんが 委託?して書いていらっしゃいます。ブログ掲載の許可いただきありがとうございました。
挟野神社さんで ウクライナ支援御朱印が 領布されています。全額 ウクライナ大使館を通じ 支援金とされるとのことです。
自分にできることということで 一刻も早い終息を願いお詣りして 先日 拝受して来ました。いつまで 領布されているかは 未定とのことでした。
挟野神社
神社情報
菅原神社(えびの市西川北)(すがわらじんじゃ)
宮崎県えびの市西川北1244
御祭神
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
例祭日 11月23日
牛越祭 7月28日
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 358社目の
御朱印をいただきました。
残り 642社です。
宮崎県の御朱印が拝受できる神社
宮崎県の御朱印が拝受できる寺社
宮崎ご当地グルメ