九州御朱印巡り 宮崎御朱印巡りで、宮崎県都城市都島町に鎮座する兼喜神社(けんきじんじゃ)に、お詣りをして御朱印を拝受して来ました。都城二十六ヶ村の宗社として厚く崇敬された神社さんです。今日で、467社目です。
鳥居
場所は、わかりずらいと言えば わかりずらいですけど、そうでもなけいと言えば そでもないような感じです。ナビのいう通りに行けば 大丈夫だと思います。ただ、住宅街の中にあり、道が狭いので 注意が必要です。
木の鳥居です。
参道
鳥居をくぐり 階段を上がり 社殿へ向かいます。上からは こんな感じです。
手水舎
たぶん 手水舎です。お水は出ていませんでした。
社殿
社殿です。
由緒
祭神・北郷相久は常陸之介と称し、都城島津氏第十代北郷時久の長男で、資性英邁文武に長じていたが、家臣のざん言にあい天正七年(1579)八月三十日都城市庄内町金石城において、父時久の軍勢に包囲され同所にて二十有八の若さで自害した。その後時久は相久の無実を知り、これを哀れんで本社を創建し、その霊を慰めることになった。
はじめは若宮八幡と称し、妹尾重貞を祠官として祭祀をとらせ、南門に別当延寿寺を創建、西門に常徳院と称する禅門を建立し追善供養の菩堤所とした。文禄四年(1595)時久公、薩州宮ノ城に移封となり、当社も同地へ移奉した。慶長五年三月、旧領地へ復帰となり、本社もまた旧社地へ遷した。同七年北郷忠能寺社を厚く崇敬し、北門に本地院と称する密寺を建立した。慶長十三年(1608)には神祇管領吉田兼治により霊八幡と改号した。明暦元年(1655)には神祇管領吉田兼喜により、さらに兼喜大明神とした。都城二十六ヶ村の宗社として厚く崇敬され、享保十九年(1734)には正一位の神階を受けた。明治に入り兼喜神社と改称、明治七年二月村社に列した。大正五年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
本神社は、宝殿・舞殿・拝殿・御供所で構成されていたが、天明八年(1788)に、宝殿・舞殿・拝殿(現社殿)に改築された。特に宝殿は、旧薩摩藩独自の彫刻方法(向拝柱の雲龍彫刻など)を取り入れた遺構であり、現代への社寺建築技術の移行過程を知る上で歴史的価値の高い建物である。
地元の人々には昔から「デメジンサァ」と呼ばれ親しまれている。
龍神様もいらっしゃいました。
御朱印
御朱印です。神主さんは 常駐されておらず、兼務されている旭丘神社(ひのおじんじゃ)で拝受できます。(お詣りをしてから、旭丘神社さんへ行きました)写真撮影、ブログ掲載の許可もいただきました。ありがとうございました。
旭丘神社(ひのおじんじゃ)
神社情報
兼喜神社(けんきじんじゃ)
宮崎県都城市都島町219
御祭神:北郷常陸介相久(ほんごうひたちのすけすけひさ)
例祭日 :10月30日
御神徳 :産業繁栄
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 467社目の
御朱印をいただきました。
残り 533社です。
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