科長神社【宮崎】綱渡り仕掛けのからくり花火で「綱火」が奉納されます

科長神社(宮崎)御朱印 宮崎県の神社御朱印
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宮崎御朱印巡りで、宮崎県都城市上水流町に鎮座する科長神社(しながじんしゃ)にお詣りをして御朱印を拝受して来ました。馬関田(現えびの市真幸)の天神を北原氏が志和地宗廟鎮守として移し勧請した神社さんです。今日で、659社目です。

 

鳥居

科長神社(宮崎)鳥居

鳥居です。

 

手水舎

科長神社(宮崎)手水舎

手水舎です。

 

狛犬

科長神社(宮崎)狛犬

狛犬様です。

 

拝殿

科長神社(宮崎)拝殿

拝殿です。

由緒

当社の勧請は第一一三代東山天皇の御代元禄六年(1693)正月十日と神社明細帳に記されているが、北郷領内神社由緒調・神社改帳には科長神社の名なく、志和地宗廟志和地天満宮はみえ、この天神は第一〇五代後奈良天皇の御代大永八年(1528)四月二十九日馬関田(現えびの市真幸)の天神を北原氏が志和地宗廟鎮守として移し勧請したものである。察するにこの志和地天満宮に科長の大神も合祀されていたのを、明治初年三島通庸が庄内計画の時、志和地天満宮を庄内に遷し、志和地の人々は志和地天満宮に、科長の大神を旧殿舎に科長神社として祀ったものではないか。あるいは天満宮辺りに科長神社が祀られていたかは不明である。
明治十七年志和地と島津家に災厄相次いで起こった。それは志和地天神を神意に背き庄内に遷したためであると祈祷師がいうので、同年志和地水流小学校に庄内より遷し祀り、さらに明治二十五年現科長神社に合祀したと言われる。
末社荒人神社は旧志和地城主白坂下総守兼次の霊を祀る。天文十二年(1543)八月二十日小山川合戦にて戦死した兼次の亡霊怪気があり、人々これを畏れ当社を旧新山寺内に勧請し、荒人神社として祭祀を行ってきたが、社殿破損したので、科長神社の末社として境内に遷し祀り今日に至っている。
現科長神社太鼓は、延宝四年(1676)丙辰四月八日と内側に墨書きされている。なお当社市無形民俗文化財からくり花火(仕掛花火)は、江戸末期の頃より夏の夜を賑わして有名である。

宮崎神社庁ホームページより

 

御朱印入れ

科長神社(宮崎)御朱印入れ

御朱印は 賽銭箱の手前にあります。

 

御朱印

科長神社(宮崎)御朱印

書置きのものをお受けしました。

境内に張り巡らせた綱を伝い、花火が次々と火花を吹きながら走っていく綱渡り仕掛けのからくり花火で、「綱火」ともよばれています。毎年7月29日、科長神社の六月灯で奉納されています。

開始年代や由来は不明ですが、幕末の頃より奉納され始められたと伝えられています。戦争で一時途絶えていましたが、昭和27年(1952)に復活しました。

都城市公式ホームページより

 

駐車場

科長神社(宮崎)駐車場

境内に停められます。

 

 

神社情報

科長神社(しながじんしゃ)

宮崎県都城市上水流町1189番地

御祭神

科津彦神(しなつひこのかみ)
科津姫神(しなつひめのかみ)
天水分神(あめのみくまりのかみ)
国水分神(くにのみくまりのかみ)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
豊受姫神(とようけひめのかみ)
猿田彦神(さるたひこのかみ)

例祭日:7月29日

 

 

正確に言うと神社だけで1000社です

今日で 659社目の

御朱印をいただきました。

残り 341社です。

 

 

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