宮崎御朱印巡りで、宮崎県日南市飫肥に鎮座する田ノ上八幡神社(たのうえはちまんじんじゃ)さんにお詣りして、御朱印をいただいて来ました。少し高台にあり、気持ちの良い風が吹き、社殿の中には 弥五郎様がいらっしゃる神社です。今日で9社目です。
鳥居
飫肥城が近くにあり、観光局が多い通りから 少し入った所にあります。白い鳥居があるので すぐわかると思います。
駐車場に車を停め、参道の階段を上ると 途中に2つ目の鳥居があります。
手水舎
手水舎です。木造の屋根に 石の手水舎です。
社殿
社殿です。昔からある 懐かしい感じがする社殿です。
由緒
『日向地誌』によると、彦火々出見尊、豊玉姫、応神天皇を祀るとある。大隅国桑原郡に稲津弥五郎というものがおり、その地の一宮正八幡の神体を背負い来て、この地に祀ったという。社殿は天永元年庚寅十月二十五日創建すると伝える。島津氏が飫肥を領した時代にも大いに崇敬したが、伊東氏の飫肥初代主伊東祐兵(報恩公)が楠原八幡原にあったのを現在地に遷座したともいわれる。(天正十六年、『日南市史』による)伊東氏が領主となってからも、領内尊社四座の一つとして社禄五十四石八斗を寄付し、尊崇が篤かった。
明治四年、寄付禄も廃止されたが、同五年鳶が峯西麓の春日大明神、今町の北にあった広木田大明神、加茂東隅の加茂大明神、中島田東麓の糺大明神、願成就寺原の北の大将軍の五座を合祀し、板敷神社となった。このため、外七柱の祭神は次の通り。
蹈韛五十鈴媛命(たたらいすずひめのみこと)
磐長比咩命(いわながひめのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
国常立命(くにのとこたちのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
別雷命(わけいかすちのみこと)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
明治二十四年に、再び田ノ上八幡神社と改称され、同四十年二月、神撰幣帛料を供進すべき神社に指定された。
明治五年までの十月二十五日の例祭には、流鏑馬二頭が祭りを盛り上げ、長人弥五郎の偶人形が町内を練り歩いた。流鏑馬はいつかすたれたが、竹龍を編んだ一丈半以上の巨人の人形が衣袴を付け、長刀を帯び、右手に長槍をつかせ四輪車で子供たちが引く弥五郎の神賑行事は、町の電線に触れるなどで中絶されたこともあるが、いまなお続けられている。
この弥五郎は、鹿児島県の岩川八幡などで同様な行事が行われている。『日向地誌』は「弥五郎は、稲積弥五郎の縁故なり」といい、寛政年間の薩藩の自尾国柱の著書で、武内宿祢とか、川上梟師をかたどったものとかの言い伝えがあることを紹介、みな八幡神社の神輿渡御の先駆をしている点から武内宿祢を擬したものではないかとしている。
「神社明細帳」 によると、境内神社一社、末社門守神社、祭神豊石窓神櫛石窓神
境内の楠は、伊東祐兵が楠原字八幡原にあった八幡神社を天正十六年(1588)、現在地に移した記念に、祐兵自身が手植えしたと伝えられ、樹高30.5㍍、周囲8.8㍍、樹齢三百八十年といわれ、日南市の天然記念物に指定されている。
社殿の中には 弥五郎様がいらっしゃいます。
お守りお札授け所
こちらが お守りお札授け所です。普段は 開いていない様子でした。
御神木
御神木です。
八幡神社境内内のクス(市指定天然記念物)
天正16年(1588)、伊東祐兵が飫肥に入城して伊東家を再興した際、その記念として祐兵が手植えしたと伝えられている。推定樹齢は約410年、樹高30m、幹周9.2mにもなる。一説には、大隅国桑原郡の稲積弥五郎がその地の一宮正八幡の神体を背負い来て、この地に祀ったとされている。現在もその故事により「弥五郎人形行事」が毎年11月に行われており、宮崎県の無形民俗文化財に指定されている。
看板より
御朱印
御朱印です。境内の中にある お守りお札授け所ではなく 駐車場のすぐ横にある 社務所の方で 書いていただけます。
神社情報
田ノ上八幡神社(たのうえはちまんじんじゃ)
宮崎県日南市飫肥10-3-12
御祭神
彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
萬幡比咩命(よろずはたひめのみこと)
田心比咩命(たごりひめのみこと)
天押雲命(あめのおしぐものみこと)
外七柱
例祭日 11月25日 ※現在は11月第2日曜日
駐車場 あり
1000社目指して 御朱印巡りします。
正確に言うと 神社だけで 1000社です。
今日で 9社目の御朱印をいただきました。
残り 991社です。
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