九州御朱印巡り 宮崎御朱印巡りで、宮崎県えびの市に鎮座する菅原神社(えびの市水流)(すがわらじんじゃ)さんに、お詣りをして御朱印を拝受して来ました。田んぼの中に建つ大きな赤い鳥居で有名な神社さんです。今日で、359社目です。
鳥居
周りは ぐるっと田んぼです。この時は 稲刈り後でしたが、収穫前の稲穂がきれいな時に 写真を撮ったら 綺麗だろうなと思いました。この日は 雲一つないいいお天気で 朱色が青空に映えて綺麗でした。
2つ目の鳥居
2つ目の鳥居です。小さいアーチ状の橋がいいですね。
なでなで仁王像
仁王像様が いらっしゃいます。
この仁王像二体の製作者は、毛利七右衛門で、享保十年(1725)4月21日徳川八代将軍吉宗の時代に建立されたもので、精かんな風貌をして郷土を守護してきた 仁王像です。
なでなで仁王像様
心をこめてなでて下さい。喜ばれます。そこがなおります。からだがすごく元気になります。
看板より
頭、肩、お腹などなど、なでなでさせていただきました。喜んでいただけたでしょうか・・・
手水舎
手水舎です。
牛犬?
狛犬様もいらっしゃいましたが(写真は撮り忘れました)、こちらの 牛様(たぶん)が 独特の雰囲気で もう1社の菅原神社さんの 牛様と似ていました。
菅原神社(えびの市西川北)
牛
可愛らしい牛様です。
社殿
社殿です。
由緒
弘安四年(1281)蒙古の役に武功があった河野伊予守通広(社家、境田新左衛門祖先)、の四世の孫通安が、明徳三年(1392)薩州伊佐郡祁答院に移住、堺田村に小社を建て天満神を安置した。その子伊予守通正の代に日向西諸県郡真幸院吉田に移住、北原氏の家臣となり、これより河野改めて境田氏という。通正建山の上に天満神社を建て吉田の鎮守とする。その孫境田藤右衛門長友当社を再興。長友が孫境田対島守満元享禄四年(1531)辛卯天満社を槻ヶ牟礼に遷す。その子孫世々社職である。島津義弘公義久公等当社を崇敬し天正十年(1582)五月二十五日義久公和歌を宝殿に納め、慶長十九年(1614)七月には義弘神領二十石を寄進したが、のち没収された。又義弘公光久公連歌を奉納した。元禄十三年(1700)庚辰二月三日社殿焼失、同十六年(1703)三月新築する。この時、ご神体は川上の柳原の地に飛び去り少しも損傷がなかったため、飛び神像と称されるようになった。
当社の旧址建山の上は自田を開くことを禁ずる。もし禁を侵すものあれば、その人必ず殃禍を受けるという。祭祀年中三度、二月卯日(打植祭)六月二十九日(夏越祭)、十月二十日がこれである。十月二十日には華表の外に神輿を守り下て、神楽を奏する祭典がある。これを浜下りという。浜下の所にて、別に供物を碗に盛り、社司飯野白鳥山に向かって、これを白鳥権現に献ずるとする。社司を押領司氏、別当を観音寺という。当吉田郷の総鎮守であり、当社は古来種々の霊験著しいとして、人々敬仰し、参詣の徒が絶えない。
当社は、現在、二月十一日の建国記念祭が定着して盛大となり、七月二十五日・夏越祭の茅の輪くぐりは昔ながらに継続され、十一月二十三日の新嘗祭も「ホゼ祭」の名で親しまれ、伝統を保持して関心を増しつつある。
御朱印
賽銭箱の近くに書置きの御朱印があります。こちらも 2種類あります。
私は こちらの御朱印を拝受しました。田んぼの稲穂と、大鳥居がきれいな御朱印です。
社務所
境内の中にある 社務所です。普段は 無人のようです。御朱印は 挟野神社の神主さんが委託されて 書いておられます。
挟野神社
駐車場
車は 2つ目の鳥居の横と、社殿を正面に見て 左側の方に スペースがあります。
神社情報
菅原神社(えびの市水流)(すがわらじんじゃ)
宮崎県えびの市水流574
御祭神
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
大山津見神(おおやまつみのかみ)
例祭日 2月17日
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 359社目の
御朱印をいただきました。
残り 641社です。
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