九州御朱印巡り 鹿児島御城印(御城郭)巡りで鹿児島県志布志市志布志町にある志布志城(しぶしじょう)まで行って来ました。内城・松尾城・高城・新城の4つの山城を総称して「志布志城」と呼びます。今日で御城印 15体目です。
4つの山城
新城跡、高城跡(左側:本丸)、高城跡(右側:二の丸)、松尾城跡、内城跡の4つの城跡を 志布志城というそうです。
車を停め 地図を確認しつつ 本丸を目指します・・・が この右側の白い杭?を見逃し 真っすぐ進み 迷いました。(-_-;)15分ほど 進み なんとなく違う感じがして 引き返し 白い杭を見つけました。
松尾城入口
松尾城入口と 左側と 二手に分かれています。とりえあず 松尾城を目指します。(この時 すでに方向感覚 おかしくなってます)
本丸へと向かう道(たぶん)
松尾城入口の二手に分かれる 左側はこんな感じで 人が入った形跡もなく 1人では怖かったので 行きませんでした。
松尾城入口から 10分くらいかな?上りきった所です。勾配があるの わかります?
松尾城跡
ここが 松尾城跡と 思われます。看板とかもなくて よくわかりませんでした。
石碑がありました。
志布志市志布志町の前川河口部、シラス台地の先端に、内城・松尾城・高城・新城の4つの中世山城が存在しています。この4つの山城を総称して「志布志城」と呼びます。
志布志は、万寿3年(1026年)に平季基によって開かれた大荘園島津荘の港として発達したといわれています。当時、志布志、松山と有明の東半分を中心とした地域は救仁院と呼ばれ、平安時代末期の文治5年(1189年)より救仁院氏が治めていました。
古より志布志は前川河口に堤防の様に存在する権現島のおかけで、天然の良港であり、海上交通の要所でした。中世においては、陸上交通より、船で一度に大量の物資を運搬できる海上交通の方が発達しておりました。そのため、この地を支配する事は重要な意味があったのです。
志布志城の正確な築城年は不明ですが南北朝の時代には松尾城と内城が存在していた事がわかっています。その後、高城と新城が築かれたと考えられています。建武3年(1336年)に、「救仁院志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残っています。この時の志布志城は、築城時期が最も早いと考えられている松尾城だと思われます。
平成17年7月14日に内城の全体と松尾城の一部が国の史跡として指定を受けました。
志布志市埋蔵文化財センターには、当時の内城の姿を想定復元した模型が展示されています。
内城跡入口
一度 松尾城跡から 駐車場側に戻り 内城跡に向かいます。この先を進んで行ったのですが、突き当りっぽくなってしまい、右側に学校があり、左側に進む小道がありましたが、人の家っぽくて 不法侵入になりそうで、行けませんでした。
で、結局 本丸がどこかもわからず・・・(無念です)また、道がわかりそうな人を連れてくるか 再度 調べて リベンジします。(本丸どこ?)
駐車場
駐車場です。広めですが、なぜか いつも ほぼ埋まってます。
志布志駅
御城印は、志布志駅構内にある 志布志市総合観光案内所で、買うことができます。
こちらの 窓口です。写真撮影、ブログ掲載許可もいただきました。ありがとうございました。
志布志のマスコットキャラクターの ししまるグッズもありました。
志布志市の御城印が 2種類と 宙の駅のものが 1種類の合わせて 3種類あります。
御城印(十字紋)
志布志城の御城印として、南北朝時代に志布志城を居城とした島津氏6代当主、島津氏久の名と島津氏の家紋をデザインしました。
島津氏の家紋と言えば「丸に十字」の丸十紋が有名ですが、古い時代には筆で描かれたような十字紋が使用されていました。
パンフレットより
十字紋の御城印です。
(丸十紋)
島津氏を象徴する丸十紋、氏久の時代に思いをはせる十字紋。志布志市在住の書道家が揮毫(きごう)した2つの御城印を、志布志城と、みなとまち志布志の記念にお持ち帰りください。
パンフレットより
(宙の駅)
宙の駅で 販売されている 御城印です。
施設情報
志布志城跡
鹿児島県志布志市志布志町帖字松尾他
志布志市総合観光案内所 ホームページ
志布志市志布志町志布志2-28-11(JR志布志駅構内)
開館時間 :9:00~17:00
駐車場:あります(^0^)ノ
鹿児島の御朱印が拝受できる神社
鹿児島の御朱印が拝受できる寺社
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