熊本御城印(御城郭)巡りで熊本県人吉市にある人吉城跡(ひとよしじょうあと)まで行って来ました。二の丸、三の丸からは人吉市街地が一望でき、春は桜の名所として多くの花見客で賑わう城跡です。今日で御城印 25体目です。
入口
相良護国神社の境内から 行くことができます。
階段を上がると・・・
於津賀社跡
於津賀社跡です。
初代相良長瀬(さがらながより)の入国前の人吉城主であった平氏の代官の矢瀬主馬祐(やぜしゅめのすけ)をまつる霊社(れいしゃ)跡である。第2代頼親(よりちか)が建立し、初めの頃御墓(塚)大明神という。文明16年(1484)に再興され、元和年中(1620年頃)に於津賀と改め、寛永7年(1630)に造替された。
社殿は南向きで、板葺きの御殿(神殿)と添殿(拝殿)の2棟があり、現在その礎石が残っている。
看板より
二の丸跡
二ノ丸跡です。
戦国時代までの人吉城は、東南の上原(うえはら)城を本城とする山城であり、この場所は「内城(ないじょう)」と呼ばれる婦女子の生活する地区であった。天正17年(1589)、第20代長毎(ながつね)によって近世城としての築城が始まると、本丸や二の丸の場所となり、慶長6年(1601)には石垣が完成している。
二ノ丸は、江戸時代の初め「本城(本丸)」と呼ばれているように、城主の住む御殿が建てられた人吉城の中心となる場所である。周囲の石垣上には瓦」を張りつけた土塀が立ち、北東部の桝形(ますがた)には櫓門(やぐらもん)式の「中の御門」(2.5間×9.5間)があり、見張りのための番所が置かれた。また、北辺には御殿から三の丸へ下る「埋御門(うずみごもん)」が土塀の下に作られ、この他に「十三間蔵(じゅうさんけんぐら)(2間×13間)や井戸があった。
三の丸は二の丸の北。西部に広がる曲輪(くるわ)で、西方に於津賀社と2棟の「塩蔵(しおぐら)」(2.5間×6~7間)を、東の「中の御門」近くに井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されている。その周囲には当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、「竹茂かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。これは人吉城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐ目的もあった。
二の丸御殿 享保4年(1719)の「高城二ノ丸御指図」によれば、御殿は北側を正面とするように配置され、「御広間」(4間×9間)・「御金ノ間)6間四方)」・「御次ノ間」(4間×6間)の接客・儀式用の表向建物と「奥方御居間」(3間×8間)・「御上台所」(3間×9間)・「下台所」(5間×8間)の奥向の建物の合計6棟からなる。これらの建物は、すべて板葺の建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、建物の間には中庭が作られている。この内「御金ノ間」は襖などに金箔が張られていた書院造の建物で、城主が生活・接客する御殿の中心となる建物である。
看板より
本丸跡
本丸跡です。
本丸は、はじめ「高御城(たかおしろ)」と呼ばれていた。地形的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡である。
中世には「繊月石(せんげついし)」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。
看板より
本丸からの景色です。風が吹いていて 気持ちよかったです。
相良護国神社社務所
相良護国神社の社務所です。
窓口?の所に あります。
御城印(御城郭)
御城印です。印はなく ポストカードという雰囲気です。
駐車場
近く(歩いて 数分くらい)の所に 駐車場はあります。
鎌倉時代から幕末までのおよそ700年間、相良家の中心だった中世城趾で、日本百名城のひとつ。
球磨川と胸川を天然の堀としてつくられており、城跡全域が国の史跡になっています。相良氏が城の修築をしている際、三日月の文様の石が出土したため、別名“繊月城”とも呼ばれています。二の丸、三の丸からは人吉市街地が一望でき、春は桜の名所として多くの花見客で賑わいます。
施設情報
人吉城跡(ひとよしじょうあと)
熊本県人吉市麓町
熊本県の御朱印が拝受できる神社
熊本県の御朱印が拝受できる寺社
熊本ご当地グルメ