宮崎御城印(御城郭)巡りで宮崎県宮崎市にある佐土原城跡(さどわらじょうあと)まで行って来ました。二の丸跡に大広間・書院・数寄屋が再現された鶴松館と、伊東四十八城の一つの城跡です。今日で御城印 23体目です。
城の駅いろは館
御城印は、鶴松館の斜め前にある 城の駅いろは館で 購入することができます。
中はこんな感じで 新鮮なお野菜 お菓子などが 並んでいます。この日も 多くのお客さんで賑わっていました。
御城印
御城印です。
駐車場
広い駐車場があります。
鶴松館
次に向かったのが 鶴松館です。
鶴松館は、入場無料で 見学することができます。
中は 写真撮影が禁止されているので 足を運んで見学されてください。
明治2年(1869)佐土原藩主島津家は居城を広瀬に移し、佐土原城は廃城となりました。城跡は田畑になっていましたが、それから120年後の平成元年(1989)に発掘調査が行われ、柱穴・根石や石組・木組の暗渠などの遺構が見つかりました。これらの遺構に基づいて、二の丸跡に大広間・書院・数寄屋が再現され、平成5年6月に鶴松館が開館しました。
他にも、大広間、書院、巨田神社棟礼、二ツ建天神社天満縁起絵詞、錦の御旗(複製)、などがあります。
佐土原城跡
本丸を目指し、向かいます。案内図です。
中の道
中の道まで 順調に歩いて来たのですが・・・
この看板を見て 心が折れてしまいました。自分が怪我するのは 自己責任なのですが、他の方に迷惑をかけるかもしれないと思い 今回は断念しました。
本丸 行きたかったな・・・
概要
14世紀半ばごろに伊東氏の一族田島休助によって田島城(たじまじょう)として建てられた。
1427年(応永34年)頃、田島氏に代わり日向国に勢力を伸ばしていた本家筋の伊東氏の伊東祐賀が入城。佐土原氏を名乗る(このころから通称として佐土原城とよばれだした)。さらに1480年(文明12年)に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配。伊東四十八城の一つに位置づけられた。
1536年(天文5年)に焼失。(1542年(天文11年)から1543年(天文12年))に、田島城(佐土原城)の跡地に新しく鶴松城(かくしょうじょう)として建てられた(通称は佐土原城)。西(現在の宮崎県西都市都於郡)にある伊東家の居城都於郡城と並ぶほどの城に整備される。
その後、伊東氏は島津義久の侵略により豊後国に一時的に退去した際、義久の実弟島津家久が城主として入った(高城の合戦)。
1587年(天正15年)に豊臣秀吉の島津氏に対する九州平定により、島津義久は秀吉に完敗し降伏する。その直後に家久は急死(死因については暗殺などの諸説ある)、息子豊久が城主となる。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで島津家は西軍に参加。豊久は討死し、徳川家康の家臣、庄田三太夫が預かるという形になった。その後1603年(慶長8年)に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領した。
1625年(寛永2年)に2代藩主島津忠興の代に、山の上の建物を壊して、山の下へ城を移した。その理由は、城郭の老朽化による修繕費増大により、藩の財政では維持ができなくなったことと、1615年(元和元年)の武家諸法度の発令による大名の城郭に対する規則(新規築城禁止・居住補修の届け出)が考えられる[1]。この際に正式名称が本家の鶴丸城と同様に「鶴」の文字をおいた松鶴城(しょうかくじょう)となる(通称は佐土原城)。
1870年(明治3年)に広瀬(現・宮崎市佐土原町広瀬)に移転したため、建造物は全て破却された。ちなみに移転先の広瀬城も廃藩置県のため未完のまま取り壊された。
1993年(平成5年)、発掘調査の成果をもとに二の丸御殿の一部が復元された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(196番)に選定された。
2018年(平成30年)、台風24号により佐土原城跡登城路で大規模崩落が発生。2021年(令和3年)3月7日に再開放される。
施設情報
城の駅いろは館
宮崎県宮崎市佐土原町上田島1387-1
営業時間:9:00~18:00
年中無休(1/1-1/3休館)
鶴松館(かくしょうかん)
宮崎市佐土原町上田島8227番地1
開館時間:9:00~16:30
開館日:土曜日・日曜日・祝日のみ
宮崎県の御朱印が拝受できる神社
宮崎県の御朱印が拝受できる寺社
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