九州御朱印巡り 福岡御朱印巡りで、福岡県朝倉市秋月に鎮座する垂裕神社(すいようじんじゃ)に、お詣りをして御朱印を拝受して来ました。秋月城跡地のすぐ近くに鎮座されていて、紅葉がとてもきれいな神社さんで、季節限定の数種類の御朱印が拝受できます。今日で、452社目です。
鳥居
鳥居です。この日 休日で、紅葉の季節のため たくさんの方がお詣りに来ていました。
黒門
人がいなくなるのを 待っていたりしましたが、ひっきりなしに途切れることがなかったので 少なくなった隙に 写真を撮りました。
二の鳥居
石の階段をあがり 社殿へ向かいます。途中が 一番 紅葉がきれいだったのですが、たくさんの方が 立ち止まり 写真を撮っていたので 参道の写真は撮りませんでした。
参道の階段です。帰りは 人が少なく 写真を撮りました。
手水鉢
手水鉢です。
社殿
社殿です。
由来記
ここは、旧筑前の国 秋月である。
当社は垂裕大明神(秋月黒田藩 初代藩主黒田長興公(1610~1665)を奉祀する。長興公は、福岡藩租黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚沈穀にして英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。
1624年(寛永元年)秋月黒田藩五万石の城主として入府する(公は十四年)
福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。
1638年(寛永十五年)島原の乱に際しては、(公は時に二十八歳)幕命に従って諸藩と共に出陣、原城本丸攻略などに大きく戦功を挙げた。
1859年(安政6年)東陽院殿(長興公)の二百年祭典挙行にあたり、時の十代藩主 長元公(土佐 山内家より養子)は藩租を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩(けいしんしゅうおん)し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。
1873年(明治6年)この神社造営に当たっては、台地を開き道をつくり旧御館(おやかた)裏の空谷杉(からたにすぎ)や入府当時に植樹した丈余の老松が用いられた。又 坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に士族坂(さむらいざか)と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者が多く崇拝の社となっている。
時がうつりて1947年(昭和22年)歴代藩主、島原の乱 以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風速の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家の為に忠誠を尽くし、殉華なされし、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀さる。参道の黒門は、秋月氏時代(1203年~1587年)の古処山城の搦手門(からてもん)であったものを、長興公の秋月築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである。(県指定文化財)
1999年10月 垂裕神社維持委員会
パンフレットより
歴史
安政6年(1859年)、秋月藩第10代藩主黒田長元が初代藩主長興の200周忌を迎えるにあたり、その功績を記念するため秋月八幡宮宮司宮永保親に命じて京都の吉田家に神号授与を申請。吉田家より『垂裕明神』の神号を与えられ、神霊を八幡宮相殿に祀ったのが始まりである。元治元年(1864年)八幡宮から秋月城内の仮御殿に移し祀る。
その後、明治5年(1872年)から3年がかりで現在地に社殿を建設。明治13年(1880年)に秋月城大手門(通称:黒門)を境内に移築。なお、社殿の建設工事及び境内の整備は旧秋月藩士達が中心となって実施したため、参道の石段は「士族坂(さむらいざか)」とも呼ばれる。
昭和22年(1947年)、歴代藩主及びその夫人・公子、島原の乱~太平洋戦争の戦死者を合祀。
御朱印
御朱印です。御朱印は、2か所で 拝受することができます。こちらは 通常御朱印です。
冬季限定の御朱印です。
シールタイプ御朱印
裏面がシールになっている御朱印です。
拝受できる場所は、長くなったので 次回 紹介します。
紅葉がとてもきれいでした。
駐車場
いつものことですが、はっきり言って 迷いました(-_-;)
一応 公共の駐車場があります。が、周辺にも民間?の駐車場があり、目的地に合わせて選ぶといいと思いました。でないと 結構距離が離れているので、歩きます。(ヘロヘロになりました)
他にも いろいろ見学できるところもあるので、まったり 街歩きをしながら お詣りするのもいいかも・・・(私は余裕がなく、お詣りしただけでした。また今度ゆっくり見て周りたいと思います。)
神社情報
垂裕神社(すいようじんじゃ)
福岡県朝倉市秋月野鳥784
御祭神
秋月藩初代藩主:黒田長興公・歴代藩主・ほか
年中行事
1月:元旦祭
4月:春季例大祭
正確に言うと神社だけで1000社です
今日で 452社目の
御朱印をいただきました。
残り 548社です。
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