伊勢宮【長崎】「大一」の文字は伊勢神宮の古い神紋です。

伊勢宮(長崎)御朱印 長崎県の神社御朱印
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長崎御朱印巡りで、長崎県長崎市に鎮座する伊勢宮(いせのみや)にお詣りをして御朱印を拝受して来ました。御神体は宇宙の中心の神様であるという認識で祀られたものと思われる神社さんです。今日で、731社目です。

 

鳥居

伊勢宮(長崎)鳥居

次に向かったのが 伊勢宮さんです。お昼ちょっと前で、ダメもとでに到着しました。

 

狛犬

伊勢宮(長崎)狛犬

狛犬様です。

 

手水舎

伊勢宮(長崎)手水舎

手水舎です。

 

拝殿

伊勢宮(長崎)拝殿

拝殿です。

神道みちしるべ

長崎市伊勢宮は今より三百九十年余前の寛永六年天台宗修験南岳院存祐という人が三重県の伊勢神宮に行き、外宮長官桧垣常晨という人にお願いし訴状をいただいて、今の地に内宮の神様、天照皇大神の御分霊を、のち寛永十六年に外宮の神様、豊玉姫大神の御分霊を勧請し、其の後明治十九年に伊勢町にありました八坂神社を合祀した為に素戔嗚尊の御神璽を相殿として祀られた神社であります。伊勢宮にお参りして一番最初に目に入りますのは掛燈籠や拝殿門帳にしるされた「大一」の文字であろうと存じます。此の「大一」の文字は伊勢神宮の古い神紋で、長崎伊勢宮でも古くより神紋として使用されてきました。

西暦前三~二世紀、中国の奉漢の時代から宇宙の最高神として、文献上に出現する太一神の字から生まれた神紋であろうと存じます。

即ち宝永七年奉行所役人朝倉元札の書いた社記に依りますと「伊勢宮は本朝百世不遷之宗廟也」と書かれていますし、正保三年 出雲大社北島国造政孝血脉の上官で、今の宮司家の始祖直重が南岳院の申請に依り出崎して宮司となった時、出雲大社上官出雲自清の裁許状に依りますと「伊勢太神は宇宙の宗廟にして王道の洪基、出雲大社は天下社禝にして神道の根源」と記されています。

即ち伊勢宮の神様は宇宙の中心の神様としてお祀りされたもので、中国の太一神と同格の神様として祀られたものと思われます。

伊勢神宮の内宮の御神体とされている鏡は「八咫」もしくは「八頭、八葉形」すなはち一種の八角形であるといわれ、又古事記の序文に出てくる「天統を得て八荒を包みたもう」とか日本書記にでてくる「八絃を掩いて宇と為す」など文中の「八絃」と「八荒」は同義で宇宙もしくは世界の全体を八角形として把握認識する事を意味し、中国の道教の経典に初見されています(福永光司著)「道教と古代日本」所載。

伊勢宮の本殿は伊勢神宮の建築様式に従って建てられていますが、本殿の床をささえる柱は八角、又拝殿正面両脇の柱、並びに神門の柱が八角を形取ってあるということは、御神体は宇宙の中心の神様であるという認識で祀られたものと思われます。

パンフレットより

当初は天照皇大神を祀る石祠だったが、元亀年間から天正年間のころにキリシタンによる社寺の焼き討ちに遭い荒廃していた。

寛永5年(1628年)、長崎の地元民が肥前国唐津出身の天台宗修験者南岳院[注釈 2]存祐を神主に推戴し、長崎に伊勢大神宮を勧請。翌6年(1629年)、伊勢外宮から「長崎伊勢宮」に分霊奉斎の裁許状が下された。

寛永16年(1639年)、南岳院が長崎奉行馬場利重を通じて幕府と伊勢神宮に請願して、外宮大神宮を鎮祠。この時、周辺の町名が新高麗町から伊勢町へと改称された

ウィキペディア(Wikipedia)より

 

お守お札授け所

伊勢宮(長崎)お守お札授け所

御朱印は、右側にあるお守お札授け所で いただけると思います。(私がお詣りした時には、お昼時間間際で 不在のため インターホンを押して対応していただけました)

 

お守

伊勢宮(長崎)お守

お守です。

 

御朱印

伊勢宮(長崎)御朱印

お昼時間だったので 1体で書置きならということで お受けしました。ありがとうございました。

 

 

神社情報

伊勢宮(いせのみや)

長崎県長崎市伊勢町37

御祭神

天照皇大神(あまてらすおおみかみ)

豊受比賣大神(とゆけひめのかみ)

素戔嗚大神(すさのおのみこと)

例祭日:9月17日

駐車場:境内に停められます。

 

 

正確に言うと神社だけで1000社です

今日で 731社目の

御朱印をいただきました。

残り 269社です。

 

 

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